Say Something

昔はよく大人になりたいと思ったものだった。
身近な大人、例えば、自分の親や学校の先生といったものの存在の大きさに比べて自分が如何に小さな存在であったかというものを意識させられたからだろう。
その反面私は奢ってもいたし、自分について過度な自信を感じていた。
だから、私は常に大人になればこの大人を見返せると思ったのだった。



都会に暮らすということは非常に興味深い。田舎というものは村社会で、誰も彼もがどこかでつながっている世界であり、ある種相互扶助的であり、人の目を避けて行動しなければならない側面がある。例えば、駅前の本屋に行けば必ず誰か会えるような社会だ。
相対化の結果。

政治家というものは非常に面白い。よくも彼らはあんな茶番を辛気臭い顔で演じることが出来るものだ。彼らはきっと頭の中身がかなりおかしいのだろう。それは、きっと、彼らが政治家村という世界に足を踏み入れた、その一歩から既に決められたことであろう。

同様に教師というものも非常に興味深い。彼らほど、非常に画一化されたシステムの中で一生を送る人も少ないのだろう。
学校の中ではそれなりに優秀で、教育学部というレールに乗り、社会を知らずに、学校という社会の前段階の小さな「社会」に身を置く。
だから、私は良く思ったものだ。彼らには常識が通じないと。

畢竟田舎のようなものは日本のあちこちに散在している。



文学というものの可能性は、可能性を可能性として残しておくことのみに依拠している。誰の小説にしろ、それで感動した、絶望したというのは、文学という文法の中でしかない感情だ。その点、凡そ文学者は自らの感動・絶望について尊大だ。
文学作品が優れているためには、その山に上っていろいろに景色が見えなければならない。



ああ、この刹那。
人はこの刹那にのみ生きていることもない。



沢山のオスのカエルを飼っていた場合、突然変異でメスになるオスが出て来るそうだ。カエルも時には人間への示唆を含んでいる。
普通でない人間の起源も普通の人間の為である。
あるいは生存するために。