人間的な、余りに、人間的な

経済学という学問は人間の合理性という名の下での非人間的な部分が垣間見れる。自分の欲求を最大化する人間なんていうのは、おおよそ人間的でない。どことなく、芥川龍之介が河童の中で、「河童の世界で職工を安楽死させて食肉にすることに対して、人間が非人間的と感じるのは、プロレタリアートの娘が売春婦になっている事実があるのに、感傷的だ。」と言っているのと近しいものを感じる。
世の中には矛盾が多分に含まれていて、そういう私も矛盾にあふれている。その矛盾を定位させることは二重の矛盾にとらわれている、自分の中で矛盾にいかに決着をつけるかということが人間的だと思った。


参考

「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」
「職工は黙って殺されるのですか?」
「それは騒いでもしかたはありません。職工屠殺法があるのですから。」
 これは山桃の鉢植えを後ろに苦い顔をしていたペップの言葉です。僕はもちろん不快を感じました。しかし主人公のゲエルはもちろん、ペップやチャックもそんなことは当然と思っているらしいのです。現にチャックは笑いながら、あざけるように僕に話しかけました。
「つまり餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちょっと有毒瓦斯をかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食うというのは、……」
「常談を言ってはいけません。あのマッグに聞かせたら、さぞ大笑いに笑うでしょう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」
(芥川龍之介「河童」より)